上北にある小川原湖の西の上北町(現・東北町)にいたのが甲山で、東の三沢市で育ったのが修司。ホントは大塚甲山を単体でやりたいんだけど、知名度がいまいちなので、寺山と抱き合わせでやります(寺山の何が天才なのかは、世間には理解されていないので、それも書く予定)。それには、どうしても小川原湖の美しい写真が必要になる。だから3月の湯治に行ったとき、ある写真家の方と交渉してきます。面会の予約は既にとれている。
(満月とミサゴ・上北,ウッドランドなかきち代表・中野晃治さんの撮影)
その方は中野さんという、上北駅のそばで製材所を経営されている好壮年(一度お話しした事がある)。うどんさんは何年も前に上北・道の駅で中野さんの写真を観て、いたく感動した。彼の心は、とにかく澄んでいる。その心が写真に反映される。じつは、亜矢香の誕生日MADで既に中野さんの写真を無断使用しております(*_ _)ペコリ
(千葉クラ初代校長と千葉富江2代目校長)
・・・明治43年に女性解放(当時の女性は生きていくために、嫁になるか風俗嬢になるかの選択肢しか無かった)の具体的実践校として、実業科のある八戸千葉学園(プロテスタント系・当時の名称は「八戸千葉裁縫女学校」)を創立したのが、羽仁もと子女史の実妹・千葉クラ女史。(じつは うどんさん、八戸で唯一、骨太の教育理念を持つ、この高校に入りたかったのだが、女子高であったためダメだった)昭和10年、2代目校長に就任した千葉富江女史は、昭和37年に藍綬褒章を受賞しているものの苦労人であられた。昭和52年、当時はまだ珍しかった中学不登校の生徒でも受け入れる「向陵高等学校」(千葉学園の普通科から独立)を作る。だが、その新しい高校に咲く花見ずして、先生は天国に召されてしまった。
松島俊夫先生が向陵の初代校長に就任されて以来39年、現在の清野耕司校長で5代目になる。清野校長は、教育方針の第一番目に「基本的な生活習慣を身につけた生徒を育てる」事を挙げられている。「生徒を育てる」というのはキレイ事では出来ない。現実には、基本的な生活習慣すら身についていない子ども達に日々接していくのだから。その上、生徒たちの親は教師まかせの所もある。戦後最大の教育者・林竹二先生が「日本の教育は、すでに滅んでいる」と言われたのは、キレイ事ばかり言って、内心では生徒たちや親をバカにしている教師であふれているからだ。だが、そういう教師ばかりでもない。うどんさんは八戸向陵高校の、そしてその母体をなった八戸千葉学園の先生方をずっと見てきて、現代の教育(つまり今どきの生徒を育てるって事)に必要な、2つの要諦を教わった。
さて、あれからしばらく経ったある年、商店街に貼ってあった向陵高校の文化祭ポスターを見た僕は「おっ!」と思った。それが、じつに生き生きとしたポスターだったからだ。もしや向陵に何か変化があったのかも知れない。それを確かめに、また文化祭に行ってみた。そこで僕は仰天した。生徒さんたちが皆、自信をもって喜々として働いているではないか!向陵は、驚くべき成長をとげていた。「いった、いこのわずかの期間のうちに何があったのだ?」 僕は狼狽した。そして、体育館のステージ発表を見に行ったのだが、謎はここで解けた。
バトン部だ。彼女らの演技の素晴らしさには舌を巻いた。10メートル以上の高さに投げ上げたバトンを、当たり前のように全員がきれいにキャッチする。この高さはハンパじゃない。照明を落とした体育館では、高いところから落ちてくるバトンが見えなくなる時があるので、キャッチするのは極めて難しいんだ。いったいどれだけ練習を積んできたのだろう。彼女らはバトントワーリングの大会で、全国大会入賞を何度もしていた。また、学校や市の行事によく出場していた。そのバトン部の輝かしい活躍と近しさが、向陵高校の全生徒に「(何もできないと思っていた)自分たちでも、やれば出来るんだ」という自信を与え、それが「生徒を育てる」という強固な意志を持った先生方の地道な努力とかみ合って、学校生徒全員のレベルが上がっていったんだ。
(右端が佐藤先生)
偏差値40以下の学校。この位の偏差値レベルの公立高校教師とホンネの話をすると、「うちの学校にはロクな生徒がいない」だの「もっといい学校に転任したい」、あるいは「この学校で勤務評定上げて、校長になる計画」という言葉が出てくるのが普通だ。父兄たちに「こういう学校にこそ本当の教育がある」とか弁舌して「立派な先生」「熱血教師」と評判になる教師たちの実態は、じつに醜い事が多い。いい学校=偏差値が高い学校という図式が脳裏に出来上がっている彼らに、「生徒たちを育てる」という教育者の基本精神は、無い。もちろん真面な教師もいるが、同僚たちの陰湿ないじめを耐えながら、自分の力量不足を嘆いているのが、悲しいことだが、明治時代から続く「本音と建て前は正反対が当たり前」の日本教育界の実態だ。
「すごいショックでした」先生は当時をこう振り返る。「でも、少人数の愛好会だったけど、指導の先生と自分たちが手づくりで作り上げているという実感があって、楽しかった」 佐藤美咲は、それから猛烈な練習を重ねて、バトン愛好会が部に昇格した3年次、全国大会に初出場して銀賞を獲るという快挙を成し遂げた。平成18年の事である。
佐藤先生は、ご自身が高校生の時に掴んだ感激と光栄を、部員一人ひとりにも味わってほしいと真摯に願っている。その一方で、バトン部の生徒さんたちは全員が、佐藤先生を心から尊敬している。信頼している。そして憧れている。教育者と被教育者の理想的な関係が、ここに出来上がる。これが第二の要諦。「距離感が無い」という真の意味だ。これがなければ、毎年全国大会で立て続けに銀賞を受賞するなんて離れ業はできない。ハウツーじゃない。信頼関係を築き上げるのが肝心なんだ。人を育てる基礎となるこの難事を、後継を育てる任のある人たちには、先ずこれをやり遂げていただきたい。心から信頼・尊敬できる人のそばにいて初めて、若者たちは驚くべき早さで成長していく事ができるのだから。
(ここに2回目インタビュー後の文追加)
佐藤美咲先生の偉大な実践は、マスコミなどでは紹介された事がない。だが彼女こそ、創立者の千葉富江先生が夢に描いていた「向陵高校に美しく咲く花」であると称えたい・・・と、まあ、こんなカンジ。うどんさんは以前から向陵と千葉は全国的に見ても、たいへんな優秀校と絶賛しているのだが、八戸には耳を貸す人がいないんだ。偏差値が低いというだけでね。んで、いまだに市内では進学校の八戸高校が神だと思いこんでいる。まあ、八校卒業生のうどんさんは、あそこの実態知ってるだけにXXXXXX←ものすごい批判(*^^)v
佐藤先生とは既にコンタクト済みで、2回目のインタビューや動画作成OKの承諾を得ている。うどんさんはね、全国の人に伝えたいことを沢山知っているのだが、その手段が分からなかった。それが去年の12月12日をもって分かった。単純にyou tubeの新チャンネルを使ってやっていけばいいんだ。このサイトと、亜矢香MADチャンネルは、それらの母体になります。みなさま、これからのブログ活動は以前にもまして変態的多角的になりますが、どうか広い心で受け止めてやってください。うどんさんは生来「奇人・変人・お変態」なのでございますから。
※今回は記事内容の都合で、亜矢香コミケ本の写真がアップできませんでしたので、3月5日のブログで(上北に行ってるけど、PCに写真画像をあらかじめ取り込んでおいて)公開する予定です。