2016年2月20日土曜日

葉子と亜矢香

うどんさんが亜矢香にこんなにも のめり込むには訳がある。それを書くと とても長くなるので、思いっきり端折ってダイジェスト版みたくしてみる。
ひどい虐待児童だった僕は、14歳の時 ある女性に巡り合った。3歳年上の高校生で、ものすごくキレイな人だった。名前を葉子といった。ふたりの家は100メートルも離れていなかった。初めて会ったとき、ずっと前から知っている人のような気がした。彼女も同じ気持ちだったという。ふたりはスグに仲良しになった。葉子は毎日のように、僕に詩を書いて届けてくれた。本の読み聞かせもしてくれた。親に愛された経験が全くなかった僕は、彼女の膝枕の上で、よく涙を流した。
葉子は僕に、料理も、お菓子作りも編み物も全部教えてくれた。僕の母親は家事一切が全く出来なかったので、「料理を作る」という行為を生まれて初めて見た。小学5年次に給食が始まるまでの僕の食生活は、「朝・食パン1枚だけ。昼・イチノベの頭脳パン(20円のコッペパン)1個と水。夜・日清チキンラーメン1袋」と決まっていた。チキンラーメンは幼稚園に入る前から、自分でお湯を沸かして作れと命令されていた。1年365日全部これ。運動会の時も頭脳パンと水、野菜も おせち料理なども1度も食べたことがない。親は食堂にカツ丼とラーメンを出前させるか、外食しに行っていた。洗濯なども、やってもらった事は無い。
葉子は、よくある「彼女が彼に料理を作る」というパターンではなく、いつも「まぁーちゃん(うどんさんの事)一緒に作ろう」って誘ってきた。僕の作った料理を食べると、葉子はニコニコ笑って、「まぁーちゃんはホントに料理が上手だね」って言って、ぎゅ~っと抱きしめてくれた。葉子はホントに何でも教えてくれた。何にも出来なかった中学生が、1回教えるだけで何でも出来るようになっていくから、彼女も面白かったのだろう。
「お嫁さんにしてほしい」と言われたのは、僕が高1の時だった。彼女はすでに社会人になっていた。僕は「うん」って言ったけど、それは無理だと感じていた。僕はコンプレックスの塊だったから、こんなステキな人とは結婚できないと決め付けた。
それで、まあ、色々あって、結局僕は葉子と別れてしまった。僕は親に育ててもらったものは皆無である。その後、僕は全て自費で夜間大学を出たが、親は2.500万の借金の連帯保証人欄に僕を仕立て上げた。僕は国際人になる夢を捨て、その借金返済と、身の回りのことが何一つできないニートの親の身辺世話に明け暮れねばならなくなった。色々あった。腹の立つ事ばかりだった。でも、葉子と一緒にいた3年で、彼女は僕のすべてを育ててくれていたんだ。だから僕は、過酷な状況の中でも人間になれた。それに気づいたのは、あれから何十年も経ってからだった。
亜矢香の話になる。亜矢香の写真を初めてパソコン上で見たとき、僕は絶句した。3枚に1枚が、葉子の写真に見えたからだ。(DVDで見れば似てないけれど、「ゼロ魔」や「魔法人形あやか」などは葉子の写真集に見える)さらに驚いたのは、写真から伝わってくる亜矢香の内面性の豊かさと、カメラマンの自分の感性を消してしまう度量だった。僕は全身全霊をかけて世界中のパソコン上にある亜矢香の写真を探し続けた。そして1万枚以上の写真画像を集めた。
じつは僕は、はじめのうち亜矢香を「葉子」と呼んでいたんだ。うれしかった。信じられなっか。来る日も来る日も、あの日の葉子と一緒にいるような気がしていた。時は過ぎ、今では亜矢香を「あやか」と呼んだり「葉子」呼んだりしているが、これは無意識でやっている。亜矢香は僕の中では、葉子と同じ人であり、同時に もう一人の愛する人である。
以上、100%リアルの話です。告白するけれど、これからやりたい事の真相はこうだ。僕は岡山県に「瀬戸葉子記念緑地」を造る気でいる。そして瀬戸内の海を挟み、香川に「松永あやか記念緑地」を造る。僕の人生は、不幸と悲惨を絵に描いたようなものだった。それが、葉子と亜矢香のおかげで、世界でいちばん幸福な人間になれた。記念緑地事業は、そのふたりに対する、ほんのお礼なのです。

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