2017年1月31日火曜日

香川旅行記・その3 讃岐財田駅のタブの木

香川県三豊(みとよ)市の
財田町(さいたちょう)にある讃岐財田(さいだ)駅は
うどんさんが一番来てみたかった場所
駅前にひろがる、日本の田舎によくある風景
だが、この三豊(みとよ)の地は、瀬戸内地方最古の貝塚があり
その規模も、香川県で最大なんだ
現在の財田駅(ざいだえき)は、鉄道てっちゃんが好むような木造無人駅だ
駅舎に入ると、うまいぐあいに誰もいない
うどんさんは、念力で
亜矢香さまの精霊をベンチに座らす
精霊いわく
「ご主人さま、三豊のおやつは、おちらし飴でございますわ」
炒って挽いた麦粉と砂糖で作る「おちらし飴」は香川全域にあるが
地域によって使う麦の種類が異なる
ここ三豊では、はだか麦(たぶん)
この精霊と国道32号線(四国新道)に出たとき
「ご主人さま、田舎もち、田舎もち」と言われた
まさか、この看板が四国新道の目印になろうとは思いもよらなかった
あん餅が入った香川の雑煮は奇抜がられているけれど
全国の郷土料理に、あん餅の汁物は、まま存在する
青森にも「けいらん」という、あん餅の吸い物があるしね
てっぱい・しょうゆ豆・まんばのけんちゃん(高菜のけんちん汁)などは自分で作る
レシピ通りにやってたら、美味しいものは作れない
そんなご主人さまの悪い性格を知って、精霊は絶妙のチョイスをしてくれる
白下糖(しろしたとう)・カワジャン・おちらし飴に磯吉ジャム
うん、どれも心地よく香川を感じるわ
ところで、財田駅のタブの木さんに聞いた話だが
大久保諶之丞の頭にあったのは、イギリスのブリタニア橋でOK
香川用水のための山掘削が南部藩の穴堰をモデルにしたと考えるのは
時期尚早という事だった
(妄想ですよ、妄想。わはははは)
讃岐鉄道開通式(明治22年)での大久保諶之丞の祝辞 口語訳
(即興でやったので、興味ある人は、細部を自分で確かめてね)

この讃岐鉄道開業式の末席に参列し、一言の祝辞が無かろうはずがない。
ああ、日本の鉄道創設は実に明治元年、内地の要・京浜から始まった。
思うに当時は、建設技術・工事・列車運転のどれをとっても、外国人の手を借りていた。
それが今や我が国の技術は大いに進み、日本人だけで事足りる。
そして、私設鉄道条例の勅令もいただいた。

京浜鉄道創設以来、奥州鉄道(東北本線)・東海鉄道・関西鉄道・山陽鉄道が続々開通す。
日本の東西が鉄道で貫通される時も遠くない。
明治元年の状況に比べたら、この差は どうだ。

我らが南海四国も、往来が多い多度津、丸亀、琴平間で、去る明治20年秋に鉄道免状下付があり、この明治22年に開通した。
これは全く讃岐鉄道会社組織の処理が適切だったからである。

ああ、讃岐鉄道はわずか40kmあまりではあるけれど、北の瀬戸内海を超えれは山陽鉄道に達し、
とくにその航路には神戸・下関、あるいは塩飽諸島の灯台があり、
あるいは乃生(のうみ)・玉野渋川の発電所があり、それに加え多度津・粟島等の良港がある。
そしてまた、ここは宮崎・鹿児島等へも足を伸ばせる航海路であり、まさに我が国内海の要と言える。
ゆえに、日本4島の要関と断言しても過言ではない。

今後、讃岐鉄道を、一端は高松まで延長させ、一端は阿讃山脈にトンネルを掘り、吉野川の沿岸あたりに線路を取って徳島・高知の両市に伸ばす。
一端は、これより西の伊予の山川を貫通させ土佐の西部を巡り高知鉄道に連結させよう。
このように四国全土を一巡するようになれば、さらなる繁栄は間違いない。

まさに、その時に当て、四国と本州をつなぐ大鉄橋を造るんだ。
瀬戸内海にある塩飽(しあく)諸島を土台にして、本州の山陽鉄道まで橋を架け、讃岐鉄道と連結させれば、いかなる時も、舟のように風や雨の心配などしなくていい。
午後には浦戸で釣りを楽しみ敦賀で夕涼みができるほど、
四方をスグに往来できる。その利便性も県民の受ける福益も、この大鉄橋ほど優れたものはない。

おお、讃岐鉄道よ、その役割は大きく重い。
ここに、いささかの過去と未来を述べ、本日の祝辞に代える。

 明治22年5月23日 地方発起人 大久保諶之丞 
原文・於讃岐鉄道開通式 大久保諶之丞之祝辞

茲に本日を卜し讃岐鉄道開業の式を挙ぐ、予や其末班に列し何んぞ一言の祝辞無かる可けんや。
抑我国鉄道の創設は実に明治の初年、内地最とも枢要なる京浜・神阪の両所に於てす。
蓋し当時其規模なり、工事なり、機関運転なり、一として皆な外人の手を経ざるは莫し。
今や我国技術大に進み、嚮に外人の手を経るものも既に我が国人の手に成るに至る。
是に於て乎、政府私設鉄道条例の発布あり。

以来東北に西海に、畿内に山陽に続々結社、以て此挙あり。
而して東西両極貫通するの期も遠からず。実に之れを以て明治の初年に比せば其差果して如何ぞや。
我が南海四州も往来最とも頻繁なる多度津、丸亀、琴平間に於て去る明治20年秋是の工を起し、
今や竣を告ぐ、是れ全く讃岐鉄道会社組織の宜きを得るの致す所なり。

嗚呼讃岐鉄道の位置たるや布設の距離僅々十余哩に過ずと雖ども、北一葦水を超ゆれば山陽鉄道に達し、殊に其間の航路は神戸・馬関の中心にして、或は塩飽与島の灯台あり、
或は乃生・渋川の電線あり、加之ならず多度津・粟島等の良港あり。
而して亦是より宮崎・鹿児島等へ針路すべきの航海路にして、実に我国内海の咽喉なり。
而して四州要関と謂も過称に非ざるなり。

今より此の線をして一は以て高松に延長せしめ、一は以阿讃国境の山を穿ち概ね吉野川の沿岸に線路を取り徳島・高知の両市に分る。
一は以て之れより以西、伊予の山川を貫き土佐の西部を巡り
以て高知に合す。夫れ四州一巡するに至らしめば、貨多を加へ運送便を得るや必せり。

是の時に当て塩飽諸島を橋台となし山陽鉄道に架橋連結せしめなば、常に風雨の憂ひなく、
午後に浦戸の釣を垂れ、夕に敦賀の納涼を得る。
実に南来北行東奔西走瞬時を費さず、其国利民福是より大なるは莫し。

於○讃岐鉄道や其関係大且つ重と謂つ可し。聊か巳往と将来を述べ以て本日の祝辞に代ふ。

明治22年5月23日 地方発起人 大久保諶之丞 

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