2017年1月8日日曜日

ゲイジュツの判る人

國學院大学夜間部に在籍していた時、柳田國男(やなぎたくにお)民俗学を熱心にやっていた。なにしろ僕が在籍していた頃の教授たちは皆、折口信夫(おりくちしのぶ)・柳田國男両先生の直弟子たちだったのだ。ああ、なんて素晴らしいんだろう。レアな情報が、授業でバンバン聞けた。ありがたかった。自分は、とりあえず『定本・柳田国男集』全31巻を読むことから始めてみた。どの巻も、一流の学者が一生かけて書き上げるような濃厚な内容だったが、それが31巻もあるのに舌を巻いた。

Cosplays : Ayaka (Japan) コスプレイ 松永亜矢香(香川)
日本的名角儿,松永亚矢香 cosplays 明日香 
Angel XX 「あすかのたいそうふく」全100枚
Photographer:Kaneshige 撮影 かねしげさん
Image Processing : Ayaka 画像処理 松永亜矢香
Music : Huole huole huole(火了火了火)
Singer : Wang Rong(王蓉) China 中国
Language : Mandarin 言語 マンダリン(中国語普通話)
Presented by Tumetaiudon (Japan) 制作 つめたいうどん(青森)
そこで、うどんさんは「人生を折りたたんで、いくつにも使う」という方法を学んだ。どうすればいいのか試行錯誤したすえに、坂を転がり落ちる樽みたいになって、行き着くところまで行って、止まったら次に移りゃあいいんだと合点した。うどんさんが、民族音楽研究家・地方学(ぢかたがく・folkloreの事)研究者・料理人・詩人・4輪の走り屋・技術屋・その他と色々やっているのは、柳田先生の影響によるところが大きい。
美術工芸界の仕事も10年くらいしていた。大学のある渋谷に「一枚の繪」という、日本最大の美術商があり、昼間は そこでバイトをしていたんだ。「一枚の繪」で最初に心づいたのは、「佳い絵」と「売れる絵」は違うという事。わぁ~、オモシロイなぁと思った。絵の相場を作っていくのは、バイヤーだ。評論家が褒め称える画家たちの絵が高値になるんじゃない。高値で絵を買う人達が、安定して何人もいるならば、相場が上がっていく。
たとえば、塙賢三(はなわけんぞう)というピエロの絵を得意とする画家がいた。ものすごい多作家で、同じような油絵をドンドン描き、それがガンガン売れていた。値段も安くなかった。ぼくたちは彼の絵を、毎日美術梱包し、全国に発送していた。評論家たちが、この画家に大した評価を与えていなかったにもかかわらず。ところが、この画家が物故になった時、「塙賢三の絵は残ってないか?」「売ってくれ」「高くても買う」という人が続出した。彼の絵は高値で安定し、現在にいたっている。取引相場を暗記しているだけの、いわゆる「鑑定団」レベルじゃ、こんな事は予想できない。理屈や拾った知識じゃ、土俵際では通用しないんだ。「芸術がわかる」とは、こういう流れを感じ取れる感性だとも言える。
さて、去年の暮、館鼻(たてはな)漁港で鳥寄せをして遊んでいたら、1台のデコトラ(decorated track)が目に入った。おお!これは『トラック野郎』のモデルになった、全国でも有名なトラックじゃないか。すぐに近くに駆けよった。カーステレオからは矢沢永吉ではなく、ド演歌が大音響で流れていた。
うどんさんは、このトラックの運転手が近くにいると直感し、あたりを見回した。トラッカーには特有の「顔」がある。スグにわかった。あ、いたいた、あの人だ。角刈りでガッチリした体躯。優しそうだが鋭い眼。「オーナーの人でしょう?わぁ~、すげえなぁ。カッコイイなぁ」 オーナーはゴッツリした(得意そうな)顔をして、「矢沢永吉もかけるけどな、今は演歌をかげでら」と胸を張った。
これから来年(2017年)のカレンダーに使う写真を撮るのだという。うどんさんは このトラックをベタ褒めする。「あんちゃん、芸術が判るじゃねぇか」といった面持ちで、自慢話が返ってくる。トラッカーは純真だ。心が汚れていない。それでいて侠気(おとこぎ)がある。
このオーナー、夏坂さんという。話をしたのは始めてだが、うどんさんはピンときた。この人、どこかの社長だわ。人をたくさん使っている。そんな技量を話しの節々に感じた。楽しい会話の後、「じゃあ、がんばってください」といって握手を求めたら、分厚い手の平で、ぼくの手をがっしり握リ返してくれた。
その夜、うどんさんは「浜の長老」の所へいった。浜通りで「高級やきとり屋」(料金は安い)をやっている女将さんの店だ。お客さんが切れたところを見計らって、「あのトラッカー、どこかの社長だべ?」「うん、○○運送会社の社長さんだ。ウチの店にも何回か来たことがある」
「やっぱり。そんな感じがしたすけよ」「東日本大震災の時にね、よその運送会社が動けないでいた時、あの人のとこは大奮闘したのさ」 そう、大震災の、みなが打ちひしがれていた時に、逞(たくま)しく、なりふり構わず先陣を切った土建屋・大工・運送屋たちは、なんと輝いていた事か。あれで、皆が正気に戻った。だから東北は震災後わずか数日で、前を見て進めるようになった。これが「人生の芸術」なんだ。
痛快な人生を送っていくには、侠気が必要だと思う。女性であっても、そうだ。侠気には人生を変える力がある。
菅原文太大兄は、仙台一校(SS68の進学校)出身だ。部活は新聞部だった。これは、新聞記者であった父の影響だと思う。一級下の部員に井上ひさしがいた。この二人は、名コンビだった。大兄が、教師たちのズルくて卑怯な振る舞いを校内新聞で暴露した時、「生徒のくせに、生意気だ」と教師どもから叩かれ、休学処分・部活停止になった事がある。子供の時から、侠気あふれる人だった。映画界から遠ざかったあとも、農業の大切さを訴え、平和活動に奔走していた。
映画「トラック野郎」に憧れて、トラッカーになった人は多い。この時代の勤務内容は、現代より遥かに過酷だった。それを、トラッカーたちは侠気で乗り越えていた。弱音を吐いたら、男がすたる。「労災」の視点からではない。侠気が理不尽を乗り越えたんだ。こんな任侠は、女たちの世界にもあった。東京オリンピック(1964年)前の建設現場地固め作業には、「お母さんたち」も混じっていた。男と一緒に、キツイ肉体労働をしていた。
「お父ちゃんのためなら、エンヤコラ」 地固め音頭「ヨイトマケ」は、この歌詞から始まる。ぼくは戦前の日本民謡を、故・竹内勉先生から習ったが、先生は「女の人が、こういう事をしなきゃならなかった時代より、今のほうがいい」と伺った事がある。それはそうだが、先生も、今の時代が全て良いと思っていたわけじゃない。「戦後の日本民謡はダメだ」「何でも手間ひまかけず、簡単に、手っ取り早くになってしまった」 だから自分が良き時代の日本民謡を守っていく、という思いから、先生はいつも、「わたくしが、民謡の竹内勉です」と順接助詞を使って自己紹介されていた。
(さちえ・「俺、 松永亜矢香」はなかったの?
あやか・あ~、無かった。残念。
うどん・ちょっと待て、ここにいる!)
あ~、「わたくしが、青森のつめたいうどんです」「わたくしが、松永亜矢香です」 サブ・サイトに「Ole Matsunaga Ayaka」というのがあるんだが、このタイトルの意味は、サッカーのOleではなく、「俺、松永亜矢香」なんだ。投稿機能がうまく作用せず(原因不明)放置してるんだが、近々復活させる。
映画「七人の侍」第一部のラストで、主役の志村喬が農民相手に刀を抜くシーンがある。「待て!槍を取れ!」「己のことしか考えない奴は、己をも滅ぼす奴だ。今後、そういう奴は・・・」 この映画で一番感動するシーンである。
また、映画「三大怪獣・地球最大の決戦」では、金星より攻め来たるキングギドラに対し、モスラが「皆で力を合わせて、地球をキングギドラの暴力から守ろうではないか」とゴジラとラドンを説得するシーンがある。ゴジラ「俺たちの知ったことか。人間はいつでも俺たちを虐めるではないか」ラドン「そうだ、そうだ」
交渉は決裂し、モスラは単身でキングギドラと戦いに行く。そして、コテンパンにやっつけられる。それを見ていたゴジラとラドンは意を決し、参戦する。理屈ではない。モスラの侠気がゴジラとラドンを動かした。この瞬間だ。ゴジラが地球の守護神になったのは。
うどんさんは変わり者なので、これらのシーンに「人生という芸術」を感じる。そして、それが判るためには、侠気が不可欠だと思っている。前にも書いたが、人生の名優・米村喜男衛(よねむらきおえ)に引けは取りたくない。擦文(さつもん)式土器を世界に広しめた、中学校中退の床屋職人。ハイヌリシュ・シュリマン(シュリーマン)と並び称されている津軽衆。司馬遼太郎は、この人を「人生の達人」と讃えている。んだども、わ~、津軽衆さは、負げねぇすけな。それでは皆さま、また来週。


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