2017年3月16日木曜日

「鳥寄さる」と「鳥寄せら」

うどんさんが冬の時期に毎朝してるのは、「鳥寄せ」ではなく「鳥寄さる」なんだ。便宜上、「鳥寄せ」って言ってるけどね。鳥さんは人の顔を覚えるから、「食料」を持っていつもの場所に行くと、「寄さってくる」
3月の八戸・新井田(にいだ)川。よくいるのがセグロちゃん、ユリカモメさん、カワウちゃん。コハクチョウさん、ワシカモメさんに成鳥になった留鳥のウミネコちゃんたち。その他いろいろ。カモ類は種類が多いので、いちいち書かない。鳥さんって、視力が人間の7倍もある。だから、信じられないくらい遠くの事が目に入る。で、ぼくが行くと(たぶん)2~3キロ先からも「寄さってくる」 数羽しかいなかった場所・あたりに鳥がいなかった場所はが、たちまち鳥だらけになる。ユリカモメさんたちは愛想がいいから、頭上で嬉しそうに鳴きながら、歓迎の旋回を始める。
いわゆるシナントロープ(人間の造った環境を利用して暮らす生き物たち)は、いつも、よく人間を観察している。なかんづく鳥類は、その人間がどんな感情を自分たちに抱いているか、瞬時に見抜く能力に長けている。彼らは人間への警戒・避難を怠らない。なにしろ、命にかかわる事だから。しかも、人間への強い興味・感心を持ちながら。さすが過適応から逃れ、生き残り、今もなお進化を続けている食物連鎖の頂点にいた恐竜族の子孫だなと、いつも思う。
ぼくは人類の落ちこぼれ&プライド皆無の人間なので、「自分の命は、鳥さん・虫さん・草木さんたちと同等・同価値」と率直に感じているんだが、そのせいもあってか、みんな気を使わずに接してくれる。まぁ、別の言葉でいえば、鳥さんたちから舐められているんだな。人間のくせに、用心しなくてもいいヤツだとね。わはははは。
さて、そんな彼らが気を使わないと、どうなるか。マガモやオナガは足に上がってくるし、ウミネコは頭の上に留まる。なかには顔の前でホバリングしてキスしてくるのもいる。コハクチョウは翼を広げて、ぼくの体をツンツンつつくといった具合。およそ、野生動物らしからぬ行動をとりだす。
動植物や虫さんたちと意思疎通させるのは、子どもの時からの憧れだった。大学に入って競馬に熱中し出した時、間直之助(はざまなおのすけ・1899-1982)という奇人を知った。馬主としても知られていたハザマ建設(間組)の取締役をやっていた人だ。ハザマは黒部ダムや早明浦ダム、青函トンネルなどを造った名門建設会社。そこの社長さんが、パドックの馬の表情から勝ち馬を推測する、なんて本を書いていたのだが、当時のぼくには、その文の真意がわからなかった。
それから20年ぐらいたった頃の事。十和田市の図書館の蔵書に、間先生の『サルになった男』という本を見つけた。表紙の写真を見て驚いた。となりにいるサルと著者の心の距離感が、まったく無い。詩的な表現で言うと、著者はサルと「まったく同じ命」になっている。こりゃ、すごい。ものすごい。ぼくは、とてもこの次元にまでは行けない。
間先生は名門建設会社の子息として生まれながらも、野生動物が大好きで、東京大学の動物学科に入学した。けれども、ゼミで動物を殺傷したり解剖するのに耐えられず、授業をサボり上野動物園に行くことを常としていた。だから、4年時の卒業審査の時、指導教官から動物学者失格を宣告されてしまい、早々に郷里の別府に帰ったという。そしたら後日、卒業証書が郵送されてきたそうだ。
(手持ちの間先生の本はこれだけ。法政大学出版局の本の帯に「勝ち馬の的確な科学的予想は本書で!」と書いてあるのが昔くさくてオカシイ)
ぼくは間先生の著書が手に入り次第、可能な限り注意深く読んだ。動物と意思疎通させる秘伝のようなものが、必ず書いてあると確信していたからだ。そしてそれは、案外早く見つかった。『全集・日本動物誌14』に収められてある「サルの愛情」(単行本にもなっているが)という論文の中にあった。以下、少し長い引用をしてみる。
「従来いわれていたような(動物の)表情運動というものは、実はそれがわれわれに表情だと感じとられた瞬間には、すでにそのずっと以前に消滅し去ったもので、つまり情緒が表出した実体の残像であるにすぎない。あたかも人々がいま見ている星がすでに過去の虚像であり、いま聞いた雷鳴がすでに過去の名残であるように、最初相手の情緒が運動神経や表情筋に働きかけ、それがわれわれの眼や耳から知覚神経によって中枢に運ばれるあいだに変化したり消滅するものである。その間に最初の情緒はもはや直接感じとるこのできない状態になってしまうだろう。そうなれば、われわれはただ中枢で認識された表情の残像を頼りに、自分の情緒と対照してこれを判断する。それはつまり(情緒は情緒を、感情は感情をもって感じとらねばないという)第一の段階をぬきにして、いきなり知的判断に飛躍してしまうのである・・・(中略)・・・動物たちをよく観察すれば、かれらにとっては、情緒や感情は生死の問題に直結する生存上の手段であることがすぐにわかる。そして、それはこれまでの人間的基盤では絶対に習得できなかったところの、新しく開拓されるべき研究分野である」
あった、あった。ここだ。これらの詩文のように美しい学術的記述の中に、秘法が隠し沈められている。要するに、間先生は、人間主義だとか今の学問、つまり現代人の知覚では、野生動物の感情・情緒は理解できないと断じているのである。また、視覚による判断(ペットなどの表情を読み取る感覚)では、感情のタイムラグを解消できない。焦点は、ここにある。
そうかぁ~。五官(五感)ではなく、霊感・霊波を使えばいいんだ。あれって、タイムラグが無いから。ぼくは合点した。「霊波」というのは、(たぶん)自発脳波でも誘発脳波でもない、まだ科学では解明されていない「脳内微弱電気信号」の一種のこと。現代医学で脳波は、表層的かつ一般的なものしか研究されていない未開拓分野である。
ちょっと乱暴な言い方になるが、この霊波とか霊感を自分の日常で使い、役立てられるようになる第一条件が、「人間社会からの落ちこぼれ」かつ「呆れるほどの根気がある人」であることのような気がしている。この「霊感・霊波」を使い、立派な仕事をなした人たちに、植物学者の牧野富太郎先生・森林学者の高橋信清先生・精霊妖怪学者の水木しげる先生などがいる。いずれも名だたる落ちこぼれであり、かつ反復力のカタマリのような方々であられた。
間先生も類まれな才能を持ちながら、言語障害があったため、人との交わりを避け、孤独と言語なき世界を求め、自然や動物たちと共に過ごす青春時代を送っていた。そして、そこから得た感覚を研ぎ澄まし、積み重ねて、「動物と人間には、言葉によらないコミニュケーションがある」ことを悟り、展開させていった。
あれ?何を書こうとしているのだっけ、このバカうどん。しばし、あっちの世界に行っていた。そうだ、そうだ、鳥さんたちとの意思疎通の仕方だ。霊波の具体的な使い方ね。これは、意思を言葉になる以前の混沌とした状態に戻し、それを頭のなかでフラッシュ映像なんかにして鳥さんに投げかけるんです。上手くいった時には、瞬時にフラッシュ映像が返ってくる。タイムラグが存在しないんだな。投げかけると同時に返ってくる。まぁ、こう書いたけど誰も信じないだろうし、信じてくれたにせよ、誰にでも出来るってことじゃないから。最低でも、スズメちゃんやカラスさんのスグそばに行っても逃げてかないという人じゃないと出来ないだろう。でも、これができるようになるとオモシロイよ。思いもよらぬ情報が入ってくるから。わはははは。
さて、「鳥よせら」だ。これは、「鳥さんに寄せられる」という意味で、ぼくはこの経験が数回ある。そのうちのひとつを書いてみる。
人里近くではあるが、人が殆んど行かない林の中に、そのカラスさんたちはコロニーをかまえていた。ぼくは、この一族のボスガラスさんと顔見知りだった。その付近を散歩していた時、ボスガラスさんが足元に降りてきた。お妃様と一緒だった。たまたま食料を持っていたので、ぼくたちは「食事会」を始めた。さいわい辺りには、誰もいない。
カラスさんのクチバシの下部は、リスのほっぺたみたいなもので、そこに食料を溜めこめる。ボスガラスさんは、しきりに食料をためこんでいたが、お妃様はじっとしていた。そして、「クワァァァ」という甘えたみたいな大きな声を出すと、天に向けてクチバシをカパッと開けた。するとボスガラスさんは、開いたクチバシの中に自分のクチバシを突っ込み、ため込んだ食料を口に入れていた。
それからボスガラスさんは、ぼくの方をチラっと見、飛んでいった。数十秒後、彼は一族を連れて戻ってきた。40羽ぐらいいた。一族は、ぼくの頭上をぐるぐると歓迎の旋回した。「うわぁ~、この行動をカラスさんもやるのか!」 感激した。ぼくはまるで、魔法使いか忍者にでもなったような気分になった。そして、カラスさん40羽に囲まれた食事会をしてきた。カラスは「神の使い」という伝説を持った国は、世界にいくつもある。そのカラスさんに「寄せられた」んだ。特有の雰囲気があり、まるで異界に足を踏み入れたような味わいがあった。以来、その一族のカラスさんたちは、ぼくに気兼ねなく接してくれるようになった。
ついでに書くと、有名なシートンの動物記「シルバー・スポット(カラスの隊長・銀の星)」には、カラスの鳴き声を五線譜で表し、その意味が書かれているが、あれは全く当てにならない。あんな単純なものではないし、もっと気ままで自由なものだ。だいいち、人間主体の立場から書かれているしね。天動説みたいなもんだと思うよ。よしんば、シートンが観察したカラス一族の場合には当てはまったとしても、カラスはファミリー(集団)ごとに、その合図が異なるだろうから。まぁ、読みものとしては面白いんだろうけど。