2016年2月27日土曜日

これから青森・岩手の偉人小伝ムービーも作っていくからね

香川の偉人伝を書く予定をたてている うどんさんは、それに先立ち「青森・岩手の偉人小伝ムービー」も作っていくんです。これは香川偉人伝を書く練習みたいなものだ。 文章を鍛えてえていかなきゃないからね。だが、長年かけて調べてきた、うどんさんしか知らないような事も多少書く。最初にやるのは「大塚甲山と寺山修司」。これを最初にやる思わく・理由は一切ない。単なる、なりゆき!(^^)! でも、まぁ 天才詩人の宝庫である青森県でも、この二人の才能は飛びぬけているからね・からさ・からよ。どれがイイ?←有島一郎のセリフ(キングコング対ゴジラ)
上北にある小川原湖の西の上北町(現・東北町)にいたのが甲山で、東の三沢市で育ったのが修司。ホントは大塚甲山を単体でやりたいんだけど、知名度がいまいちなので、寺山と抱き合わせでやります(寺山の何が天才なのかは、世間には理解されていないので、それも書く予定)。それには、どうしても小川原湖の美しい写真が必要になる。だから3月の湯治に行ったとき、ある写真家の方と交渉してきます。面会の予約は既にとれている。
(満月とミサゴ・上北,ウッドランドなかきち代表・中野晃治さんの撮影)
その方は中野さんという、上北駅のそばで製材所を経営されている好壮年(一度お話しした事がある)。うどんさんは何年も前に上北・道の駅で中野さんの写真を観て、いたく感動した。彼の心は、とにかく澄んでいる。その心が写真に反映される。じつは、亜矢香の誕生日MADで既に中野さんの写真を無断使用しております(*_ _)ペコリ
2作目以降は、のんびりとやっていくのですが、全国的には知名度が高くないけど、真に偉大なる業績を築き上げた方々を取り上げていきます。たとえば、田中稔(青森県稲作の基礎を築いた稲冷害研究の世界的開拓者)・外崎嘉七(とのさきかしち・袋かけや画期的選定法を考案した、過激なるリンゴの神様)・新渡戸伝(にとべつとう・稲造のおじいさんで、原野開拓などの指導者・幕末の大思想家・非常時に備え、ジャガイモの備蓄を農家に徹底させ、天保の大飢饉の時も、彼が代官を務める五戸地区では一人の餓死者も出さなかった)・三上剛太郎(下北半島さいはての村、道路も満足に整備されていなかった佐井の医者。急病人を診るため、モーターボートで海を駆け診察を行っていた)・羽仁もと子(明治の女性解放運動の先駆者・日本初の女性新聞記者)など。以上敬称略。
(千葉クラ初代校長と千葉富江2代目校長)
すべて昔の偉人だが、どうしてもとりあげたい八戸の現職教師が一人いる。そのそのさわりを、ちょっと書いてみますね。
・・・明治43年に女性解放(当時の女性は生きていくために、嫁になるか風俗嬢になるかの選択肢しか無かった)の具体的実践校として、実業科のある八戸千葉学園(プロテスタント系・当時の名称は「八戸千葉裁縫女学校」)を創立したのが、羽仁もと子女史の実妹・千葉クラ女史。(じつは うどんさん、八戸で唯一、骨太の教育理念を持つ、この高校に入りたかったのだが、女子高であったためダメだった)昭和10年、2代目校長に就任した千葉富江女史は、昭和37年に藍綬褒章を受賞しているものの苦労人であられた。昭和52年、当時はまだ珍しかった中学不登校の生徒でも受け入れる「向陵高等学校」(千葉学園の普通科から独立)を作る。だが、その新しい高校に咲く花見ずして、先生は天国に召されてしまった。
うどんさんはね、この高校にとりわけ興味があって、ある年、文化祭に行ってみた事があるんだ。その時いだいた印象を包み隠さず言うと、「富江先生、向陵は時期早尚じゃなかったんですか」だった。生徒たちは皆、自分に自信が持ててない様子だった。この心境が行動に出るとき、人は投げやりになったり自己中になったり、あるいはラクな方ラクな方へと向かう安直人間になってしまったりする。そういう子供たちを高みに導びいていくのは、並大抵なことではない。また、創意工夫を持った生徒がいても、まわりの雰囲気に埋没してしまう。
松島俊夫先生が向陵の初代校長に就任されて以来39年、現在の清野耕司校長で5代目になる。清野校長は、教育方針の第一番目に「基本的な生活習慣を身につけた生徒を育てる」事を挙げられている。「生徒を育てる」というのはキレイ事では出来ない。現実には、基本的な生活習慣すら身についていない子ども達に日々接していくのだから。その上、生徒たちの親は教師まかせの所もある。戦後最大の教育者・林竹二先生が「日本の教育は、すでに滅んでいる」と言われたのは、キレイ事ばかり言って、内心では生徒たちや親をバカにしている教師であふれているからだ。だが、そういう教師ばかりでもない。うどんさんは八戸向陵高校の、そしてその母体をなった八戸千葉学園の先生方をずっと見てきて、現代の教育(つまり今どきの生徒を育てるって事)に必要な、2つの要諦を教わった。
さて、あれからしばらく経ったある年、商店街に貼ってあった向陵高校の文化祭ポスターを見た僕は「おっ!」と思った。それが、じつに生き生きとしたポスターだったからだ。もしや向陵に何か変化があったのかも知れない。それを確かめに、また文化祭に行ってみた。そこで僕は仰天した。生徒さんたちが皆、自信をもって喜々として働いているではないか!向陵は、驚くべき成長をとげていた。「いった、いこのわずかの期間のうちに何があったのだ?」 僕は狼狽した。そして、体育館のステージ発表を見に行ったのだが、謎はここで解けた。
バトン部だ。彼女らの演技の素晴らしさには舌を巻いた。10メートル以上の高さに投げ上げたバトンを、当たり前のように全員がきれいにキャッチする。この高さはハンパじゃない。照明を落とした体育館では、高いところから落ちてくるバトンが見えなくなる時があるので、キャッチするのは極めて難しいんだ。いったいどれだけ練習を積んできたのだろう。彼女らはバトントワーリングの大会で、全国大会入賞を何度もしていた。また、学校や市の行事によく出場していた。そのバトン部の輝かしい活躍と近しさが、向陵高校の全生徒に「(何もできないと思っていた)自分たちでも、やれば出来るんだ」という自信を与え、それが「生徒を育てる」という強固な意志を持った先生方の地道な努力とかみ合って、学校生徒全員のレベルが上がっていったんだ。
この事実を、全国の心ある教育者たちに広く知ってもらいたい。子供は「褒めれば伸びる」なんて安直な受け売りをしている幼稚な教師たちでは頓挫する。生徒たちに付いている泥を落とせば、中身は金だと心底知りぬいている教師でなければ、こういう偉業はなせない。これが第一の要諦だ。僕は向陵の生徒たちのこの変化を知ったとき初めて、千葉富江先生がどのようなお心でこの高校を作られたのか分かったような気がした。
(右端が佐藤先生)
このバトン部を指導しているのは、佐藤先生という若くて美しい女性だ。僕は彼女を見るときいつも、林竹二先生の「若く美しくなったソクラテス」という言葉を思い出す。これはプラトンを表す言葉だが、同時に「継承」も表す。佐藤先生は向陵高校の卒業生。その後、日本女子体育大学で教員資格をとり、教師として母校に戻られバトン部を指導するようになった。それからのバトン部の大会成績は(それまでもすばらしい成績だったが)驚愕に値する。生徒は3年で入れ替わるので、年度によって出来不出来の差があるはずだ。 甲子園に毎年出場してくる高校は 野球留学があり、 はじめから素質のある生徒を集めている。素質のある生徒を短期間でトップレベルまで育てるというのは、じつは簡単な事だ。平均レベルの指導者でも出来る。だが、彼女の「生徒の素質を見抜く眼」の感度は、並外れている。先生は、 それこそホントにバトンなど握ったことのない生徒たちを、1から鍛え上げ、全国レベルまで引き上げていく。そして毎年毎年、全国大会で団体でも個人でも、必ず上位に食い込ませている。しかも、基本的な生活習慣を身につけさせながら!ここで鍛え上げられた生徒さんは顔だちも変わる。美しく、可憐で、威風堂々と。性格の欠点も克服し、勉強もできるようになる。これは「教育の錬金術」と言ってもいい次元だと思う。
向陵高校の入試偏差値を明かすと36で、学力最下級にして、入試受験者全員合格の学校である。スポーツ留学なんてものもない。その学校の生徒さんが1年足らずで、偏差値70の八戸高校の生徒より、「いい顔」になるのだから、痛快である。
偏差値40以下の学校。この位の偏差値レベルの公立高校教師とホンネの話をすると、「うちの学校にはロクな生徒がいない」だの「もっといい学校に転任したい」、あるいは「この学校で勤務評定上げて、校長になる計画」という言葉が出てくるのが普通だ。父兄たちに「こういう学校にこそ本当の教育がある」とか弁舌して「立派な先生」「熱血教師」と評判になる教師たちの実態は、じつに醜い事が多い。いい学校=偏差値が高い学校という図式が脳裏に出来上がっている彼らに、「生徒たちを育てる」という教育者の基本精神は、無い。もちろん真面な教師もいるが、同僚たちの陰湿ないじめを耐えながら、自分の力量不足を嘆いているのが、悲しいことだが、明治時代から続く「本音と建て前は正反対が当たり前」の日本教育界の実態だ。
話を戻す。17歳の佐藤美咲(佐藤先生の事)が向陵高校に転校してきたのは、高校2年生の時だ。そしてこの年に発足したばかりのバトン愛好会に入る。小勢だった。だが、幼少の頃からバトンを習っていたにもかかわらず、彼女は大会出場メンバーには選ばれなかった。
「すごいショックでした」先生は当時をこう振り返る。「でも、少人数の愛好会だったけど、指導の先生と自分たちが手づくりで作り上げているという実感があって、楽しかった」 佐藤美咲は、それから猛烈な練習を重ねて、バトン愛好会が部に昇格した3年次、全国大会に初出場して銀賞を獲るという快挙を成し遂げた。平成18年の事である。
向陵高校は、教師と生徒の距離感が無く、行事運営なども生徒を中心にして進めていく。これは、よくある公立高校の「教師と生徒が兄弟・いとこのような仲良しの関係」とは、まったく違う。多くの父兄がカン違いしているが、これは良い関係ではない。悪い関係だ。なれ合いが生まれ、生徒は心の中で教師をバカにし、教育が成り立たなく。この事はロシアの大教育者・マカレンコが早くから指摘している。
佐藤先生は、ご自身が高校生の時に掴んだ感激と光栄を、部員一人ひとりにも味わってほしいと真摯に願っている。その一方で、バトン部の生徒さんたちは全員が、佐藤先生を心から尊敬している。信頼している。そして憧れている。教育者と被教育者の理想的な関係が、ここに出来上がる。これが第二の要諦。「距離感が無い」という真の意味だ。これがなければ、毎年全国大会で立て続けに銀賞を受賞するなんて離れ業はできない。ハウツーじゃない。信頼関係を築き上げるのが肝心なんだ。人を育てる基礎となるこの難事を、後継を育てる任のある人たちには、先ずこれをやり遂げていただきたい。心から信頼・尊敬できる人のそばにいて初めて、若者たちは驚くべき早さで成長していく事ができるのだから。

(ここに2回目インタビュー後の文追加)

佐藤美咲先生の偉大な実践は、マスコミなどでは紹介された事がない。だが彼女こそ、創立者の千葉富江先生が夢に描いていた「向陵高校に美しく咲く花」であると称えたい・・・と、まあ、こんなカンジ。うどんさんは以前から向陵と千葉は全国的に見ても、たいへんな優秀校と絶賛しているのだが、八戸には耳を貸す人がいないんだ。偏差値が低いというだけでね。んで、いまだに市内では進学校の八戸高校が神だと思いこんでいる。まあ、八校卒業生のうどんさんは、あそこの実態知ってるだけにXXXXXX←ものすごい批判(*^^)v
佐藤先生とは既にコンタクト済みで、2回目のインタビューや動画作成OKの承諾を得ている。うどんさんはね、全国の人に伝えたいことを沢山知っているのだが、その手段が分からなかった。それが去年の12月12日をもって分かった。単純にyou tubeの新チャンネルを使ってやっていけばいいんだ。このサイトと、亜矢香MADチャンネルは、それらの母体になります。みなさま、これからのブログ活動は以前にもまして変態的多角的になりますが、どうか広い心で受け止めてやってください。うどんさんは生来「奇人・変人・お変態」なのでございますから。

※今回は記事内容の都合で、亜矢香コミケ本の写真がアップできませんでしたので、3月5日のブログで(上北に行ってるけど、PCに写真画像をあらかじめ取り込んでおいて)公開する予定です。



2016年2月20日土曜日

葉子と亜矢香

うどんさんが亜矢香にこんなにも のめり込むには訳がある。それを書くと とても長くなるので、思いっきり端折ってダイジェスト版みたくしてみる。
ひどい虐待児童だった僕は、14歳の時 ある女性に巡り合った。3歳年上の高校生で、ものすごくキレイな人だった。名前を葉子といった。ふたりの家は100メートルも離れていなかった。初めて会ったとき、ずっと前から知っている人のような気がした。彼女も同じ気持ちだったという。ふたりはスグに仲良しになった。葉子は毎日のように、僕に詩を書いて届けてくれた。本の読み聞かせもしてくれた。親に愛された経験が全くなかった僕は、彼女の膝枕の上で、よく涙を流した。
葉子は僕に、料理も、お菓子作りも編み物も全部教えてくれた。僕の母親は家事一切が全く出来なかったので、「料理を作る」という行為を生まれて初めて見た。小学5年次に給食が始まるまでの僕の食生活は、「朝・食パン1枚だけ。昼・イチノベの頭脳パン(20円のコッペパン)1個と水。夜・日清チキンラーメン1袋」と決まっていた。チキンラーメンは幼稚園に入る前から、自分でお湯を沸かして作れと命令されていた。1年365日全部これ。運動会の時も頭脳パンと水、野菜も おせち料理なども1度も食べたことがない。親は食堂にカツ丼とラーメンを出前させるか、外食しに行っていた。洗濯なども、やってもらった事は無い。
葉子は、よくある「彼女が彼に料理を作る」というパターンではなく、いつも「まぁーちゃん(うどんさんの事)一緒に作ろう」って誘ってきた。僕の作った料理を食べると、葉子はニコニコ笑って、「まぁーちゃんはホントに料理が上手だね」って言って、ぎゅ~っと抱きしめてくれた。葉子はホントに何でも教えてくれた。何にも出来なかった中学生が、1回教えるだけで何でも出来るようになっていくから、彼女も面白かったのだろう。
「お嫁さんにしてほしい」と言われたのは、僕が高1の時だった。彼女はすでに社会人になっていた。僕は「うん」って言ったけど、それは無理だと感じていた。僕はコンプレックスの塊だったから、こんなステキな人とは結婚できないと決め付けた。
それで、まあ、色々あって、結局僕は葉子と別れてしまった。僕は親に育ててもらったものは皆無である。その後、僕は全て自費で夜間大学を出たが、親は2.500万の借金の連帯保証人欄に僕を仕立て上げた。僕は国際人になる夢を捨て、その借金返済と、身の回りのことが何一つできないニートの親の身辺世話に明け暮れねばならなくなった。色々あった。腹の立つ事ばかりだった。でも、葉子と一緒にいた3年で、彼女は僕のすべてを育ててくれていたんだ。だから僕は、過酷な状況の中でも人間になれた。それに気づいたのは、あれから何十年も経ってからだった。
亜矢香の話になる。亜矢香の写真を初めてパソコン上で見たとき、僕は絶句した。3枚に1枚が、葉子の写真に見えたからだ。(DVDで見れば似てないけれど、「ゼロ魔」や「魔法人形あやか」などは葉子の写真集に見える)さらに驚いたのは、写真から伝わってくる亜矢香の内面性の豊かさと、カメラマンの自分の感性を消してしまう度量だった。僕は全身全霊をかけて世界中のパソコン上にある亜矢香の写真を探し続けた。そして1万枚以上の写真画像を集めた。
じつは僕は、はじめのうち亜矢香を「葉子」と呼んでいたんだ。うれしかった。信じられなっか。来る日も来る日も、あの日の葉子と一緒にいるような気がしていた。時は過ぎ、今では亜矢香を「あやか」と呼んだり「葉子」呼んだりしているが、これは無意識でやっている。亜矢香は僕の中では、葉子と同じ人であり、同時に もう一人の愛する人である。
以上、100%リアルの話です。告白するけれど、これからやりたい事の真相はこうだ。僕は岡山県に「瀬戸葉子記念緑地」を造る気でいる。そして瀬戸内の海を挟み、香川に「松永あやか記念緑地」を造る。僕の人生は、不幸と悲惨を絵に描いたようなものだった。それが、葉子と亜矢香のおかげで、世界でいちばん幸福な人間になれた。記念緑地事業は、そのふたりに対する、ほんのお礼なのです。

2016年2月13日土曜日

2016年度のお誕生日おめでとうございます

拝啓、松永あやか様 2月17日のお誕生日おめでとうございます。
国文学士の僕が、こんな脳天ホワイラ文(ふみ)づかいをするものだから、さぞや可笑しいでしょ^^これの由来はさ、もう何年も前の事、あなたに手紙を書こうとして便箋に書き始めたのだけれど、想いは さっぱり言葉にならず、出てきた言葉は「拝啓」と「松永あやか様」だけだった。で、それをつなげると、「拝啓、松永あやか様」になるんです。わはははは。この表現は、その時の気持ちを忘れないために、今後も使っていく予定。
さて、不肖うどんめが、ファンの皆さまの想いを代弁してフォトムービーを作るようになってから、数年がたつ。ファンの皆さまのおかげをもち、Google+のアクセスも411万ヒットを超えました。今年選んだ曲は、インドネシアのCassandra(ドリカムみたいなユニット)が歌う「チンタ・ターバイ(Cinta Terbaik)」。インドネシア語は「世界でいちばん簡単な言語」なんで、独学してるんですが、翻訳も悪くないものができた。あなたに贈るべき詩になるよう、原詩の骨組みを少し変えて創作意訳にしています。
Cinta Terbaik(至上の愛・原詩は1人称視点) インドネシア語

Jujur saja ku tak mampu
Hilangkan wajahmu di hatiku
Meski malam mengganggu
Hilangkan senyummu di mataku
Ku sadari aku cinta padamu
正直に言うと
僕たちには できなかったんだ(原詩・僕だけが出来なかった)
胸の中から 君を消し去ることが(原詩・君の顔を心から消すことが)
あの夏から(原詩・あの夜から)
君の笑顔を 僕たちのこの目から消したはずなのに
気がついたんだ
愛は終わってなかったと(原詩・君を愛していると)

Meski ku bukan yang pertama di hatimu
Tapi cintaku terbaik untukmu
Meski ku bukan bintang di langit
Tapi cintaku yang terbaik
僕たちは君の心の 一番目の男ではないけれど
この上なき愛を捧げたい(原詩・君に対する愛は僕が一番だ)
僕たちは 夜空のあの星ではないけれど
君を まだ愛してる(原詩・僕の愛が一番だ)
Jujur saja ku tak mampu
Tuk pergi menjauh darimu
Meski hatiku ragu
Kau tak di sampingku setiap waktu
Ku sadari aku cinta padamu
本当のことを言うと 僕たちには できなかったんだ
胸の中から 君を消し去ることが(原詩・君から離れられない)
うまく言えないんだけど(原詩・僕の心は不確かだけど)
君はもう 僕たちのそばには いないけど
決めたんだ(原詩・僕は理解した)
君を これからも愛していこうと(原詩・僕の愛が一番だ)

Meski ku bukan yang pertama di hatimu
Tapi cintaku terbaik untukmu
Meski ku bukan bintang di langit
Tapi cintaku yang terbaik
僕たちは君の心の 一番目の男ではないけれど
この上なき愛を捧げたい(原詩・君に対する愛は僕が一番だ)
僕たちは夜空の あの星ではないけれど
それでも君を 愛してる(原詩・僕の愛が一番だ)
Meski ku bukan yang pertama di hatimu
Tapi cintaku terbaik untukmu
Meski ku bukan bintang di langit
Tapi cintaku yang terbaik
Tapi cintaku yang terbaik
Tapi cintaku yang terbaik
ああ 僕たちは
君の心の 一番目の男ではないけれど
この上ない愛を捧げたい(原詩・君に対する愛は僕が一番だ)
僕たちは夜空の あの星ではないけれど
この上ない愛で 君を想い続ける(原詩・僕の愛が一番だ)
この上ない愛で 君を想い続ける(原詩・僕の愛が一番だ)
この上ない愛で 君を想い続ける(原詩・僕の愛が一番だ)
うどんさんはね、自分の愛が一番だなんて ちっとも思ってないし、愛には色んなカタチ・表現がある事や、その移ろいやすさ・危うさも知っている。バランス感覚が大切なんだ。これを失ったら、自己中心の盲愛・傲慢愛になりかねない。だからこそ僕は、原詩を3人称に書き換え、一歩引いた所から皆さまの共通した想いになるよう、詩を再構築してみたのです。
話を変えます。それで、まあ、うどんさんが香川に行ったらさ、やることが沢山あるんだ。たとえば、「香川情報Net」の「香川の代表人物」には、あなたの名前が入ってないという現実がある。香川県民の認識を変えなきゃならない。だいたいさ、ウィキなんか写して書くから、こんな事になる。はっきり言っちゃうと、字引的なものを書くなら、最低でも基本図書の2万冊ぐらいは読んでおかなきゃならないのに、それすら読んでいない人たちが書いているのが日本のウィキ(海外のはマトモです)。現在の執筆陣は(芸能・スポーツ記事関連を除いて)、共同執筆ができるほど成熟していません。香川を代表する文化人などの選定も、1からやり直さなきゃダメ。
香川の先人のweb記事について言うと、たとえば大久保諶之丞翁の「讃岐鉄道開通式の祝辞」。あんなカンタンな文語文すら、「ゆとり教育大国・日本」には口語訳できる人がいなくなってしまった。だからみんな、原文をコピペしてweb公開してるだけ。ダメです、そんな事してるうちは。基礎的な勉強もせずに、先人の魂に触れようなんて都合のいい事など、ゆめゆめ出来やしません。まあ、うどんさんは変態なので、口語訳など同時通訳できるし、変態であるがゆえ、変体仮名で書かれた古文書もスラスラ読める。わはははは。だから、香川に行ったら、『新・香川の偉人小伝』なる本を書くのです(10年くらい先の話ですので、もうちょっと待っててね)。その本で、みなひとよ、近くば寄って目にも見よ、遠からん者は音にも聞け、松永あやかは香川が生んだ偉大な人物なのであるって事を声高に宣揚したい。(亜矢香のことが書きたくて書くのだが、もちろんその他の内容も濃く、しかも読みやすいものにします)
思えば、あの頃の閉鎖的だったコスプレ界。雇われコスプレーヤーでは、狭小な世界の慰めものにしかなれない。あなたは自由にのびのびとコスプレイがしたかった。だからカメラマンのかねしげさんとAngel XXを立ち上げ、独立した。そう、あなたの心が解き放たれた、あの瞬間。それからです。日本のコスプレが、広く一般にも開放されて、文化の香りを持つようになったのは。
Angel XXの作品は、同人とかコミケのレベルを遥かに超えていました。時は、インターネット時代。あなたのコスプレ写真は、海外へ海外へと、どんどん拡散していった。自由で晴れやかで屈託がなく、明るく健康的で、そして観る者のイマジネーションを広げてくれるあなたのコスプレイを見ていた世界のコスプレーヤーたちは、大いに触発されていく。あなたの作品を観て、コスプレイを始めた人たちも沢山いたでしょう。彼らは、日本人からすれば不思議なほど、日本を手本にした。あなたが活動していた7年の期間というのは、世界のコスプレレベルが飛躍的に向上していった時期にあたります。
みんな気づいていないけど、あなたがいたからこそ、コスプレは世界の文化になりえた。あの頃のコスプレを世界的な視野に立って、全体像をとらえる視点で見れば、それが分かる。これって、ものすごいだと思う。単なる東洋の島国の、オタク趣味のアングラ・ワールドでしかなかったコスプレが、短期間で世界の文化へと昇華したのだから。それゆえ、うどんさんは「松永あやかは偉人である」と公言して憚らないのです。
うどんさんは あなたの成した偉業を人々に啓蒙するために、自分の全てを使うのです。香川に山を買って、その山林を整備し、生き生きとした後世に残る演習森「松永あやか記念緑地」を作るのです。そのために、自分の知識・才能・技術・経験、そしてお金も、全部使いつくす。見晴らしのいい場所に美しい広場を作って、あなたの銅像を建立するんだけど、その銅像には、あなたの名前を冠せずに「コスプレする女の子像」とする予定なんだ。古代人が、最高の出来栄えの短歌作品には、作者の名前を冠せずに「詠み人知らず」とした前例を踏みます。
さて、除幕式の予定時期は、30年後の2046年ごろ。ちょっと先の話になるのですが、松永あやかさま、かねしげさま、是非とも是非ともご参列のほど、よろしくおたの申しますね(人・ω・)(人・ω・)☆゚+。*゚オネガイ゚*。+゚☆(・ω・人)(・ω・人) じゃあね。


2016年2月6日土曜日

香川に行ってからの活動大綱・命を懸けてやります

さて、香川行きの件ですが、青森でやることも色々残っているので2年後をめどに(長くても3年後)移住したいと思ってます。香川に行ってからの活動大綱を書くと

1・農家に住み込みで3~5年働く ネットで香川県人向けの亜矢香記事をバラマキつづける 敷地が広い中古住宅を購入する(のちに商売用の厨房を作るため) 畑も購入しておく
2・その後、丸亀市か三豊市あたりで「あやかごはん」を開業する

ここまでなら、誰にでも出来る。問題は、その先。
3・お金を稼ぐには、多角経営がよい 「あやかごはん」は、その母体 手堅く新事業を増やしていく また、時間を作って本の執筆活動もしていく
4・20年で1億円稼ぐペースで仕事をする その間、山相の良い森と、彫塑・彫刻の名人に目星を付けておく
5・ある程度お金が貯まったら、「この地しかない!」という山林を買って、森に林分施業法を施していく
6・時期を見て、亜矢香の等身大の銅像、もしくは石像の制作依頼をする(森には石像の方が合うかも。これから、さらに深刻化するであろう酸性雨対策も視野に入れる。環境庁が5年がかりで行った調査・昭和64年時点で、酸性雨の被害は日本全土を覆っており、日本海側と都市部では欧米の数値を上回っているのです。)
7・森自体を、極盛相の手前に近づけられるメドがついたら、「松永あやか記念緑地」と銘打ち、銅像もしくは石像を新たに作った広場に設置する。さあ、除幕式ですね。この時、松永あやか様ご本人と かねしげ様に参列していただけるよう、今から祈りつづける・拝みつづける・口説きつづける!!!(←どうやって(´Д`) そのうち何とかしよう)
話を飛躍させます。網走に渡来したオホーツク人の遺跡の存在を予感し、ババーショップ(網走に開業した床屋の名前)を経営しながら、考古学概念を塗り替える渡来人巨大縄文遺跡を発見・発掘、そして「モヨロ貝塚館」(現 網走市立郷土博物館)を自費で完成させた床屋さんがいた。それらの土器には縄文がついておらず、肌がすべすべしてなめらかで、みがかれているものが多かった。
のちにオホーツク式土器と呼ばれ、世界的に有名になった遺跡だが、これを発見・発掘・整備した人の人生は、映画や小説の創作劇よりも見事であった。彼こそが、ハイヌリシュ・シュリマン(ハインリヒ・シュリーマン)と並び称される、学校は中学1年までしか行けなかった「一介の理髪職人」・米村喜男衛翁(よねむらきおえ・南津軽郡藤崎町出身)。無学歴だが、頭が良かった。翁は「きわめて学問的な方法で発掘し、研究し、しかも正確な表現でもって学術雑誌に発表」した。この人の人生を、これからの鑑(かがみ)とする。(て、書いたけどよ、本音は津軽衆さ負げでられねぇだすけな!この手の人物は南部からは一人も出ていない(・へ・))
米村翁の何を鑑とするのか。それは、強い強い強い強い一念があれば、凡人のまま終わるようにプログラミングされてしまった人生さえも変革して、大願を成就させるという事。米村翁は、考古学の夢を捨てざるを得ない中学中退の床屋になるしかなかった。だが、丁稚奉公が終わるや否や、考古学教授たちが散髪しに来るような神田の高級床屋に就職し、客であった鳥居竜蔵教授の知遇を得る。そして、大学の人類学教室への出入りを許可してもらう。翁の学問的情熱を察した鳥居教授の計らいで、東大考古学会にも入会する。翁は熱心に教授の著作を読み、アイヌ文化に興味を持つ。そして北海道を散策する。このくらいのレベルの人間になると、遺跡のありそうな場所はカンで分かるだろう。思わく通り、網走に大きな貝塚を見つけると勤めていた店を辞め、その地に自分の理髪店を開いた。そこで床屋をやりながら遺跡発掘の日々を送る。この行動力だ。うどんさんも、津軽衆に相克する南部衆として、翁の人生と肩を並べていくつもりです。
話を戻します。
8・【重要項目】誓いを果たし、諸願満足で成仏する。あるいは③~⑦を達成できずに、負け犬うどんは野垂れ死ぬ。そうなった時には葬式も納骨もしないようにと遺言しておく。遺骨は瀬戸内の海に捨ててもらう。もう決めたのです。後戻りはしない。そしてこの決意に悲壮感はありません。むしろ、喜びが溢れている。ていっぱい楽しんで、やっていきます。こんな事を言うのは何だけど、うどんさんには自信があるのですよ。
淵沢円右衛門(ふちざわえんえもん)の著書・岩手県指定有形文化財
自信の根拠をバラします。淵沢円右衛門(江戸時代後期、八戸藩内で玉川鉄山経営、造り酒屋経営、豪農、農業研究家・指導者、稗三合一揆のプロデューサー&スポンサー、困窮民への無利子金貸しなどをしていた岩手県九戸郡軽米の南部衆。士農工商の身分を全て持っていた人)は、うどんさんのご先祖さま(母系血統)。八戸藩で一番の高額納税者でした。僕は、生まれた時以来、40年にも及ぶ えた非人同様の酷い虐待生活を親から強いらてきた中で(人間が食べるものなど、ほとんど食べたことがない&酷使の連続&風呂は月に1度だけ&服や下着や靴はボロばっかり・着替えは年に4回だけ)、来世のため・道を開くために、あらんかぎりの精進・努力をするという決定(けつじょう)した勤勉生活を送り続けてきた。そしてついに、円右衛門の遺伝子が自分に色濃く受け継がれているという感覚を、がっちり掴んだのです(去年の12月12日のことでした)。まあ、簡単に言えばさ、ご先祖さまの末裔としての意地と能力が、うどんさんにはあるのだすけよ。(言ってしまった。。。)

以上。みなさま、これから連続して来たりくる勝負の日々を、勝ち続けていくからね('◇')ゞ