2016年2月27日土曜日

これから青森・岩手の偉人小伝ムービーも作っていくからね

香川の偉人伝を書く予定をたてている うどんさんは、それに先立ち「青森・岩手の偉人小伝ムービー」も作っていくんです。これは香川偉人伝を書く練習みたいなものだ。 文章を鍛えてえていかなきゃないからね。だが、長年かけて調べてきた、うどんさんしか知らないような事も多少書く。最初にやるのは「大塚甲山と寺山修司」。これを最初にやる思わく・理由は一切ない。単なる、なりゆき!(^^)! でも、まぁ 天才詩人の宝庫である青森県でも、この二人の才能は飛びぬけているからね・からさ・からよ。どれがイイ?←有島一郎のセリフ(キングコング対ゴジラ)
上北にある小川原湖の西の上北町(現・東北町)にいたのが甲山で、東の三沢市で育ったのが修司。ホントは大塚甲山を単体でやりたいんだけど、知名度がいまいちなので、寺山と抱き合わせでやります(寺山の何が天才なのかは、世間には理解されていないので、それも書く予定)。それには、どうしても小川原湖の美しい写真が必要になる。だから3月の湯治に行ったとき、ある写真家の方と交渉してきます。面会の予約は既にとれている。
(満月とミサゴ・上北,ウッドランドなかきち代表・中野晃治さんの撮影)
その方は中野さんという、上北駅のそばで製材所を経営されている好壮年(一度お話しした事がある)。うどんさんは何年も前に上北・道の駅で中野さんの写真を観て、いたく感動した。彼の心は、とにかく澄んでいる。その心が写真に反映される。じつは、亜矢香の誕生日MADで既に中野さんの写真を無断使用しております(*_ _)ペコリ
2作目以降は、のんびりとやっていくのですが、全国的には知名度が高くないけど、真に偉大なる業績を築き上げた方々を取り上げていきます。たとえば、田中稔(青森県稲作の基礎を築いた稲冷害研究の世界的開拓者)・外崎嘉七(とのさきかしち・袋かけや画期的選定法を考案した、過激なるリンゴの神様)・新渡戸伝(にとべつとう・稲造のおじいさんで、原野開拓などの指導者・幕末の大思想家・非常時に備え、ジャガイモの備蓄を農家に徹底させ、天保の大飢饉の時も、彼が代官を務める五戸地区では一人の餓死者も出さなかった)・三上剛太郎(下北半島さいはての村、道路も満足に整備されていなかった佐井の医者。急病人を診るため、モーターボートで海を駆け診察を行っていた)・羽仁もと子(明治の女性解放運動の先駆者・日本初の女性新聞記者)など。以上敬称略。
(千葉クラ初代校長と千葉富江2代目校長)
すべて昔の偉人だが、どうしてもとりあげたい八戸の現職教師が一人いる。そのそのさわりを、ちょっと書いてみますね。
・・・明治43年に女性解放(当時の女性は生きていくために、嫁になるか風俗嬢になるかの選択肢しか無かった)の具体的実践校として、実業科のある八戸千葉学園(プロテスタント系・当時の名称は「八戸千葉裁縫女学校」)を創立したのが、羽仁もと子女史の実妹・千葉クラ女史。(じつは うどんさん、八戸で唯一、骨太の教育理念を持つ、この高校に入りたかったのだが、女子高であったためダメだった)昭和10年、2代目校長に就任した千葉富江女史は、昭和37年に藍綬褒章を受賞しているものの苦労人であられた。昭和52年、当時はまだ珍しかった中学不登校の生徒でも受け入れる「向陵高等学校」(千葉学園の普通科から独立)を作る。だが、その新しい高校に咲く花見ずして、先生は天国に召されてしまった。
うどんさんはね、この高校にとりわけ興味があって、ある年、文化祭に行ってみた事があるんだ。その時いだいた印象を包み隠さず言うと、「富江先生、向陵は時期早尚じゃなかったんですか」だった。生徒たちは皆、自分に自信が持ててない様子だった。この心境が行動に出るとき、人は投げやりになったり自己中になったり、あるいはラクな方ラクな方へと向かう安直人間になってしまったりする。そういう子供たちを高みに導びいていくのは、並大抵なことではない。また、創意工夫を持った生徒がいても、まわりの雰囲気に埋没してしまう。
松島俊夫先生が向陵の初代校長に就任されて以来39年、現在の清野耕司校長で5代目になる。清野校長は、教育方針の第一番目に「基本的な生活習慣を身につけた生徒を育てる」事を挙げられている。「生徒を育てる」というのはキレイ事では出来ない。現実には、基本的な生活習慣すら身についていない子ども達に日々接していくのだから。その上、生徒たちの親は教師まかせの所もある。戦後最大の教育者・林竹二先生が「日本の教育は、すでに滅んでいる」と言われたのは、キレイ事ばかり言って、内心では生徒たちや親をバカにしている教師であふれているからだ。だが、そういう教師ばかりでもない。うどんさんは八戸向陵高校の、そしてその母体をなった八戸千葉学園の先生方をずっと見てきて、現代の教育(つまり今どきの生徒を育てるって事)に必要な、2つの要諦を教わった。
さて、あれからしばらく経ったある年、商店街に貼ってあった向陵高校の文化祭ポスターを見た僕は「おっ!」と思った。それが、じつに生き生きとしたポスターだったからだ。もしや向陵に何か変化があったのかも知れない。それを確かめに、また文化祭に行ってみた。そこで僕は仰天した。生徒さんたちが皆、自信をもって喜々として働いているではないか!向陵は、驚くべき成長をとげていた。「いった、いこのわずかの期間のうちに何があったのだ?」 僕は狼狽した。そして、体育館のステージ発表を見に行ったのだが、謎はここで解けた。
バトン部だ。彼女らの演技の素晴らしさには舌を巻いた。10メートル以上の高さに投げ上げたバトンを、当たり前のように全員がきれいにキャッチする。この高さはハンパじゃない。照明を落とした体育館では、高いところから落ちてくるバトンが見えなくなる時があるので、キャッチするのは極めて難しいんだ。いったいどれだけ練習を積んできたのだろう。彼女らはバトントワーリングの大会で、全国大会入賞を何度もしていた。また、学校や市の行事によく出場していた。そのバトン部の輝かしい活躍と近しさが、向陵高校の全生徒に「(何もできないと思っていた)自分たちでも、やれば出来るんだ」という自信を与え、それが「生徒を育てる」という強固な意志を持った先生方の地道な努力とかみ合って、学校生徒全員のレベルが上がっていったんだ。
この事実を、全国の心ある教育者たちに広く知ってもらいたい。子供は「褒めれば伸びる」なんて安直な受け売りをしている幼稚な教師たちでは頓挫する。生徒たちに付いている泥を落とせば、中身は金だと心底知りぬいている教師でなければ、こういう偉業はなせない。これが第一の要諦だ。僕は向陵の生徒たちのこの変化を知ったとき初めて、千葉富江先生がどのようなお心でこの高校を作られたのか分かったような気がした。
(右端が佐藤先生)
このバトン部を指導しているのは、佐藤先生という若くて美しい女性だ。僕は彼女を見るときいつも、林竹二先生の「若く美しくなったソクラテス」という言葉を思い出す。これはプラトンを表す言葉だが、同時に「継承」も表す。佐藤先生は向陵高校の卒業生。その後、日本女子体育大学で教員資格をとり、教師として母校に戻られバトン部を指導するようになった。それからのバトン部の大会成績は(それまでもすばらしい成績だったが)驚愕に値する。生徒は3年で入れ替わるので、年度によって出来不出来の差があるはずだ。 甲子園に毎年出場してくる高校は 野球留学があり、 はじめから素質のある生徒を集めている。素質のある生徒を短期間でトップレベルまで育てるというのは、じつは簡単な事だ。平均レベルの指導者でも出来る。だが、彼女の「生徒の素質を見抜く眼」の感度は、並外れている。先生は、 それこそホントにバトンなど握ったことのない生徒たちを、1から鍛え上げ、全国レベルまで引き上げていく。そして毎年毎年、全国大会で団体でも個人でも、必ず上位に食い込ませている。しかも、基本的な生活習慣を身につけさせながら!ここで鍛え上げられた生徒さんは顔だちも変わる。美しく、可憐で、威風堂々と。性格の欠点も克服し、勉強もできるようになる。これは「教育の錬金術」と言ってもいい次元だと思う。
向陵高校の入試偏差値を明かすと36で、学力最下級にして、入試受験者全員合格の学校である。スポーツ留学なんてものもない。その学校の生徒さんが1年足らずで、偏差値70の八戸高校の生徒より、「いい顔」になるのだから、痛快である。
偏差値40以下の学校。この位の偏差値レベルの公立高校教師とホンネの話をすると、「うちの学校にはロクな生徒がいない」だの「もっといい学校に転任したい」、あるいは「この学校で勤務評定上げて、校長になる計画」という言葉が出てくるのが普通だ。父兄たちに「こういう学校にこそ本当の教育がある」とか弁舌して「立派な先生」「熱血教師」と評判になる教師たちの実態は、じつに醜い事が多い。いい学校=偏差値が高い学校という図式が脳裏に出来上がっている彼らに、「生徒たちを育てる」という教育者の基本精神は、無い。もちろん真面な教師もいるが、同僚たちの陰湿ないじめを耐えながら、自分の力量不足を嘆いているのが、悲しいことだが、明治時代から続く「本音と建て前は正反対が当たり前」の日本教育界の実態だ。
話を戻す。17歳の佐藤美咲(佐藤先生の事)が向陵高校に転校してきたのは、高校2年生の時だ。そしてこの年に発足したばかりのバトン愛好会に入る。小勢だった。だが、幼少の頃からバトンを習っていたにもかかわらず、彼女は大会出場メンバーには選ばれなかった。
「すごいショックでした」先生は当時をこう振り返る。「でも、少人数の愛好会だったけど、指導の先生と自分たちが手づくりで作り上げているという実感があって、楽しかった」 佐藤美咲は、それから猛烈な練習を重ねて、バトン愛好会が部に昇格した3年次、全国大会に初出場して銀賞を獲るという快挙を成し遂げた。平成18年の事である。
向陵高校は、教師と生徒の距離感が無く、行事運営なども生徒を中心にして進めていく。これは、よくある公立高校の「教師と生徒が兄弟・いとこのような仲良しの関係」とは、まったく違う。多くの父兄がカン違いしているが、これは良い関係ではない。悪い関係だ。なれ合いが生まれ、生徒は心の中で教師をバカにし、教育が成り立たなく。この事はロシアの大教育者・マカレンコが早くから指摘している。
佐藤先生は、ご自身が高校生の時に掴んだ感激と光栄を、部員一人ひとりにも味わってほしいと真摯に願っている。その一方で、バトン部の生徒さんたちは全員が、佐藤先生を心から尊敬している。信頼している。そして憧れている。教育者と被教育者の理想的な関係が、ここに出来上がる。これが第二の要諦。「距離感が無い」という真の意味だ。これがなければ、毎年全国大会で立て続けに銀賞を受賞するなんて離れ業はできない。ハウツーじゃない。信頼関係を築き上げるのが肝心なんだ。人を育てる基礎となるこの難事を、後継を育てる任のある人たちには、先ずこれをやり遂げていただきたい。心から信頼・尊敬できる人のそばにいて初めて、若者たちは驚くべき早さで成長していく事ができるのだから。

(ここに2回目インタビュー後の文追加)

佐藤美咲先生の偉大な実践は、マスコミなどでは紹介された事がない。だが彼女こそ、創立者の千葉富江先生が夢に描いていた「向陵高校に美しく咲く花」であると称えたい・・・と、まあ、こんなカンジ。うどんさんは以前から向陵と千葉は全国的に見ても、たいへんな優秀校と絶賛しているのだが、八戸には耳を貸す人がいないんだ。偏差値が低いというだけでね。んで、いまだに市内では進学校の八戸高校が神だと思いこんでいる。まあ、八校卒業生のうどんさんは、あそこの実態知ってるだけにXXXXXX←ものすごい批判(*^^)v
佐藤先生とは既にコンタクト済みで、2回目のインタビューや動画作成OKの承諾を得ている。うどんさんはね、全国の人に伝えたいことを沢山知っているのだが、その手段が分からなかった。それが去年の12月12日をもって分かった。単純にyou tubeの新チャンネルを使ってやっていけばいいんだ。このサイトと、亜矢香MADチャンネルは、それらの母体になります。みなさま、これからのブログ活動は以前にもまして変態的多角的になりますが、どうか広い心で受け止めてやってください。うどんさんは生来「奇人・変人・お変態」なのでございますから。

※今回は記事内容の都合で、亜矢香コミケ本の写真がアップできませんでしたので、3月5日のブログで(上北に行ってるけど、PCに写真画像をあらかじめ取り込んでおいて)公開する予定です。



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